仙台で
震災から昨日で半年です。お盆の記憶も遠くなってしまいましたが、私はお盆休みに仙台へ行きました。ほんの一部ではありますが、皆さんに被災地のようすを伝えたくて書かせていただきますね。
被災地に知人のいない私は、ネットの情報をたよりに支援センターを探し、短い日程なのでアクセスの良い所、お盆も休みなく活動している所(お盆は休む所が多い)、こどもや家族や半日でもOK、という所を見つけて個人で行きました。周辺は、仙台駅からバスで30分、海に近い田舎、という感じです。
その支援センターは、個人は事前連絡なく朝9時までに受付に行けばよかったのですが、どうも関西からのボランティアは”変わり者”ぽい人が多いのか、この人も関西から来てね・・・と先輩を紹介されたりしました。
ボランティアは、受付で、ボランティア保険の加入確認後、地区の方から寄せられた要望(最初はセンターが1件1件声をかけてまわったそうです。家屋や側溝の泥だし、伸び放題の草刈り、地域を元気にするイベントのお手伝いなど)に対して7~8人のグループに分かれて、地図をたよりに自転車で行きます。津波被害の大きい所は一帯に住んでいる人がいないので、道を聞くこともできません。
活動地区は若林地区と言いますが、100人ほどの方が亡くなられたり行方不明になられているようで、とても辛いお話も聞きました。既に仮設も建っていましたが、センター代表によるとこの地区も復興まで3年はかかると思う、とのことでした。
私は、到着時間の関係で1日目は周辺を自転車を借りて見てまわり、被災地だということを忘れてしまいそうなくらい賑やかな仙台駅近くで宿泊し(その時震度4の地震が来て飛び起きた)、2日め以降は草刈りをしましたが、当然海に近いほど被害は多く、だんだん倒壊した家屋が多くなり、だんだんそれも無くなった広大な土地に根ごそぎ流された巨木や、大きなタンクなどが転がっているのです。
要望のあったお家の草を刈るうちに小船が現れるなどのこともあったようです。私のグループの担当したお家は、建物の形だけは残っていましたが、津波の跡がはっきりあり、2メートルくらいは来ていて、床も抜け、住んでおられません。それでも、お家の方は畑が荒れるのを防ぎ、ものを植えたいとおっしゃっていたようです。
地区の方々は、いかにもボランティアの私たちに静かに頭を下げてくださいます。13日にあった地区を元気づけるイベントのひとつである夏祭り、私は参加できませんでしたが、大賑わいで、たくさんの人が集まっておられました。
ボランティアに来ておられる方は、関東からの若い人が多かったですが、被災で仕事を失ったのをきっかけに関わった方、以前被災地に住んでおられたり、学生時代を過ごして知人のおられる方、既に仕事はリタイアしておられ自動車で駆けつけずっと泊り込んでいる方、地元に近くて知り合い同士で何度も来られている方、阪神淡路大震災の近くにいながら当時何もできなかったからという方、動機はさまざまでした。(私の参加時で1日90人近くの人が来られていました)
お世話になった支援センターはもともと社会福祉協議会という行政とタッグを組んでいましたが、5ヶ月経ち、行政も一定の区切りをつけ、車両や物資も引き上げられたそうです。避難所が次々閉鎖されていくのと同じですね。
だからこそ、、支援の中心になる人たちが、そこに腰をおろし耳を傾けながら、全国からの人のつながりを生かした活動を長くコツコツと進んでいくのが一番大きい力なんだな、と思いながら帰阪しました。ところで、この”熊”ですが、↓
お世話になったセンターの看板の横に立っています。津波による流木を使ってチェーンソー世界一(!)の人が作ったということで被災地のあちこちで16~17体あるそうです。きっと願いを込めながら制作されたことでしょう。
(すぎもと)
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